地域分析名東区
名東区は、昭和50年(1975年)2月に千種区から分区独立して誕生した区です。かつては多くの灌漑用ため池が点在し、畑、稲作の他、養蚕や葉煙草も栽培する田園地帯でしたが、昭和30年代後半から急速に大規模な土地区画整理や地下鉄路線、さらには高速道路の整備などにより、市内屈指のベッドタウンとして、また名古屋の東玄関にふさわしいまちとして発展しました。
社宅や質の良いマンション・アパートが多く、比較的地元色が薄い地域であるため地元の東海地方出身者のみならず地方からの新住民や転勤者家庭、学生なども多く在住しています。そのため明るい雰囲気のカフェ・レストランなども多くあります。
名東区内には東山線の駅が4つあり市内の移動が楽にできるだけでなく、東名高速道路、名古屋第二環状自動車道、名古屋高速のインターチェンジやジャンクションがあり、国道302号(名古屋環状2号線)も緑区までの区間が開通したため、東西南北いずれの方角に移動する際にも便利な位置にあります。中村区の名古屋駅が名古屋の西玄関(鉄道の玄関)であるのに対して、名東区は名古屋の東玄関(道路の玄関)として交通の要衝となっています。
平成17年には愛知万博会場への輸送手段として、リニアモーターカーを導入した東部丘陵線(愛称・リニモ)が開通し、近隣の市や町との交通結節点としてますます賑わいを見せています。
名東区の歴史
名東区は、1975年(昭和50年)に千種区から分区独立して誕生しました。区の名称は、「名古屋市の東部に位置し、区内に東名高速道路名古屋ICを有し、名古屋の東玄関にふさわしい名称」ということから「名東区」と名付けられました。区のシンボルマークも、「め」の字を名古屋インターチェンジのイメージを盛り込んでデザインされています。
縄文・弥生時代より人が住んでいたと推測されており、松井町近辺より、鏃(やじり)、石槍、石斧が大量に出土しており、高間町からは甕棺(かめかん)が発見されています。古墳時代から鎌倉時代の初めにかけては一大窯業生産地であり(猿投窯)、区内各地で古窯が発掘されています。
奈良時代、名東区は山田荘として「東大寺諸荘園文書目録」に掲載されています。西区や守山区にも散在する形を取っており、山田荘は1213年(建保元年)には後鳥羽上皇に寄進されています。
矢田川水系に属する北部と天白川水系に属する南部に分かれ、主要交通路の山口街道・中馬街道も北部の猪子石地区と南部の高針地区をそれぞれ東西に通っていて、南北をつなぐ交通路は近代まで貧弱でした。ただし中馬街道は信濃と名古屋の物資交換を果たす上で重要な役割を担っていました。また高針街道は名古屋から飯田の元善光寺に参詣する道の一つでした。
産業の中心は農業であり、米作りが主でしたが、起伏の激しさや乾燥した土地の多さのため農業用水が不足しました。そのため各地にため池が150箇所も作られました。明治期に入っても主産業は農業であり主な産物は米・麦でしたが、第二次大戦までは養蚕・葉タバコの生産も盛んに行われていた。また、高針地域では亜炭が産出し、その炭質は優秀と言われ、鉱山局に重要鉱山として指定されたほどでした。現在では農地は少なくなり、多くは住宅地として整備されましたが、元々地形的には緩やかな傾斜地帯が多く、かつての里山は猪高緑地や牧野が池緑地などの大規模な緑地公園として形を保持しています。
1975年の名古屋市編入後、区の中心を横断する形で名古屋市営地下鉄東山線が開通し、1990年代頃から交通の要衝である上社ジャンクションの建設が進行した事で南北への移動も便利な土地柄となり、特に物流業を中心に事業所を開設する企業も現れるようになりました。
区民の声
閑静な住宅地が広がっています。
都市公園が100ヵ所以上も設けられました。 その総面積は市内最大で、身近に自然とふれあえる環境が整備されています。
区内の住宅はマンションや社宅も多く、転勤・異動による人の入れ替わりが多いです。
人口・住宅平均地価
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